珪藻プレパラートの役割

2007.10.10 (1st edition), copyright (C) MWS

珪藻プレパラートの役割 




【1】珪藻プレパラートとは

珪藻プレパラートは,珪藻という微細藻類の殻(から)をスライドグラス上に封入したものである。珪藻の殻は専門的には珪藻被殻(diatom frustule)と呼ばれているが,珪酸質でできているいわばガラスのようなものである。その表面には顕微鏡でなければ見えない微細な刻印があるために,顕微鏡対物レンズの検査に適している。このことに気づいた先人は,後述するように,19世紀中頃からレンズのテストに珪藻を用いていたようである[1]。なお国内では珪藻プレパラートと珪藻スライドという二つの用語が流通しているがどちらも同じものである。国際的には後者diatom slidesの方が普通である。

【2】その特徴

さて,この珪藻プレパラートが対物レンズの性能試験に適している理由が幾つかある。まず一つめは,珪藻被殻がガラスの殻であり,封入剤も透明なので,封じられた標本のコントラストが染色標本と比較してとても低い,ということである。大雑把に言うと,レンズの性能はそのレンズで見える限界付近の微細構造に対してどのくらいコントラストが高い像を結ぶかで決まると言ってよいので,珪藻のようなコントラストが低い物体はレンズの極限性能を試験することに適しているのである。

二つめは,様々な構造があるということである。大きな構造もあれば,顕微鏡対物レンズでは見ることのできない微細構造もある。専門用語でいえば空間周波数分布が広いということである。いくつかの珪藻を揃えてしまえば,対物レンズテスト用には十分ということになる。

三つめは,珪藻の殻が透明体なので,各種コントラスト法のテスト用にも向いているということである。低屈折率の封入剤に封じられた珪藻は例えて言えば水の中の氷みたいなものである。これを効果的に可視化するためには,暗視野法・位相差法・微分干渉法などの検鏡法が必要になってくる。その試験に向いているのである。

四つめは,ほとんど無機成分で劣化しないということ。顕微鏡標本には強い光が当たることが多く,標本が劣化する「標本焼け」という現象がある。しかし珪藻は500℃で焼いても僅かに脱水反応が起こるだけで,その構造は保たれる。耐久性という点ではこれ以上の試料はないであろう。

五つめは,珪藻の種が決まってしまえば微細構造の大きさはほぼ決まる,ということ。多少の違いはあるのだが,300nm(ナノメートル)の構造はこの種,250nmならこの種,というように,種を選べば構造の細かさを選ぶことができるのである。そして珪藻は河川や沿岸で普通に採集できたので,経験者であればそれらの種を入手することができたのである。もちろん,多少の努力は必要であるが。

光学的には全く関係ないが,見ていて美しい,というのも特長だろう。形状は多種多様で,不思議で,繊細である。目視検鏡の場合は見ていて美しい,というのは大事な要素ではないかと思われる。

これらの諸点は,蝶の羽にある鱗粉を分解能試験に使う場合と比較しても,優れているかもしれない。蝶はまず,捕まえることがむずかしいし,微細構造の大きさごとに種を揃えることは現実的ではないのである。養殖すればいいのだが手間が半端ではない。だから手軽な珪藻が対物レンズの実用試験に重宝されたのであろう。

【3】知っておくべき問題点

良いことばかりを並べてきたが欠点もある。一つは製作が面倒なことである。珪藻の殻だけを残すのに,脱脂・酵素処理,硫酸や硝酸,あるいは塩素系漂白剤による有機物の分解,洗浄など多くの手間を必要とする。また困ったことに,全ての珪藻にOKな方法はなく,種によって処理方法を変えないと殻がバラバラになったり失われたりする。

二つめは,分類にある程度の知識を要する点であろう。欲しい珪藻を手に入れるのは,知っている種なら簡単な場合もあるし,見たこともなく生態も知らない種ならむずかしいだろう。

そして三つめは,光学的な問題である。顕微鏡の対物レンズはガラスと同じ屈折率(nd≒1.52)の封入剤に封じられた標本に対して収差が補正されている(一部は例外もある)。しかし珪藻の屈折率は1.43程度のため,1.52程度の封入剤で封じると極めて低いコントラストとなり,実用上不便である。だから珪藻標本はふつう,屈折率が1.65〜1.75程度の封入剤で封じられている。これは顕微鏡対物レンズの設計値からずれているので,封入剤に沈んでしまった珪藻からは大きな球面収差が生じてよく見えない(コンデンサの照明条件も設計値から外れるが害は小さい)。カバーグラスに貼り付いている,言い換えればいちばん対物レンズに近い珪藻を選んで観察する必要がある。

【4】顕微鏡の発展に果たしてきた役割

しかしいずれにしても珪藻が光学顕微鏡の発達史上で果たしてきた役割は大きく,新しい対物レンズが開発されるとまず,珪藻を覗いてその性能を評価することが行われていた。ニコン相談役の鶴田は次のように記している[2]。

実用試験に近い方法として,天然の硅藻類で作った標本が,19世紀半ばから広く使われています。これは単細胞の藻類で,細胞膜に硅酸質が沈殿してその上に細かい線からなる模様を作っているもので,その間隔は1mmあたり数1000本から数100本まであり,しかも同一の種類の間では個体間のばらつきが少ないため標本に適しています。これを硫酸や硝酸で処理して細胞膜の殻だけ残して標本にします。これは正にコントラストの低い,細かい構造の標本ですから,その像のコントラストを目視観察で調べてレンズの品質を揃えるための実用試験を行うことができます。

東條は1941年出版の書籍[1]の中で下のように記している。ちなみに彼は日本光学(当時)の技師である。

理論的には,以上記したやうに,照明光の波長を短くし,対物レンズの開口数を大きくすれば,分解力は高まるわけであるが,実際にはレンズ系の収差状態やら,照明の如何によるコントラストの影響などもあるから,開口数から期待される分解力が果たして実現されているかどうかは,実際に極く細かく引かれた線を顕微鏡で観察又は撮影して見なければわからない。かうした細かな格子としては昔は蝶の鱗粉などを用いたが,一八四一年英国のソリット以来,珪藻の細線によることが普通である。

19世紀半ばという時代は,まだ顕微鏡光学の理論(アッベによる)は完成していなかった頃である。レンズの設計製作も職人による現品合せが普及していた頃なので,品質を維持するためには珪藻によるテストが欠かせなかったと考えられる。この時代の顕微鏡がそれなりの品質を確保していたのは,珪藻というテストチャートが存在していたことが大きいと想像しても良いだろう。

19世紀後半から20世紀初頭でも珪藻はよく利用されている。ツァイスが新しい顕微鏡対物レンズを開発すると,そのレンズを用いて珪藻がどのように見えるかすぐにテストされていた。Dippelという人が書いた顕微鏡観察の本(1882年出版)には分解能試験に使うべき珪藻の種が詳細に記されている。また当時(1879年〜1932年)のRoyal Microscopical Societyに掲載されている報告を読むと,分解能試験に珪藻を用いている記述がたくさん出てくるのである。ケーラー照明で有名なA.ケーラーも紫外線顕微鏡を開発する過程で珪藻をテストチャートに用いている(1903年)。

現代でも専門家は珪藻を試験に使うことがある。顕微鏡の本を読んでいると珪藻がしばしば登場することがその証である。昭和初期に出版された顕微鏡関係の書籍には,分解能,照明法の部分で珪藻に関する詳しい記述がある[1][3]。片方の本はハードカバーの表紙にトリケラチウムという三角形の珪藻が金箔で印刷されている。最近の書籍でも表紙に珪藻が登場している[4]。基礎から高度な技法までを述べた世界的スタンダードな教科書[5]や,特殊な検鏡法を扱った専門書[6]にはテスト試料として珪藻がたびたび登場する。珪藻はいつの時代も顕微鏡の近くに存在しているようである。

【5】珪藻プレパラートの実用性

現代の顕微鏡は品質管理が行き届いており,珪藻の実用試験を行わなければ製品の不良を見つけられないなどということはないであろう。出荷された対物レンズはいずれもカタログデータ通りの性能を有していて,開口数どおりの分解能を発揮するとみて,まず間違いない。しかしその高いレベルに管理された品質の中にも優劣は存在する。また同じカタログスペックの対物レンズでも,年式により性能が異なることがある。珪藻プレパラートで対物レンズを比較検鏡すると,同じ開口数でもよく見えるレンズと,まあまあ見えるレンズの区別がつく場合がある。

MWSの経験でも微分干渉用アポクロマートを上回る素晴らしい切れ味を発揮する偏光用アクロマート(O社)や,30年以上も昔の33.6mm同焦点対物レンズで非常によく見えるプラン対物レンズ(N社)を発見したりしている。いずれも珪藻を(単色光で)見なければ気づかなかったものである。これらの比較検鏡から,対物レンズにはグレードを付すことができ,同じスペックの対物レンズから最良のものを選別して使うことが可能になった。研究者や一般の観察家でも,対物レンズを複数持っている方は,珪藻で比較検鏡してみたらどうだろうか。

練習用としても利用価値が高い。

「珪藻のプレパラートは顕微鏡使用の訓練にはよいものであらう。」これは東條のことばである。一般の顕微鏡使用者は対物レンズのテストなど行わないので珪藻プレパラートは関係のない存在と思っている人もいるかもしれない。しかし練習用試料として利用価値が高く,またよく考えると,一般検鏡というのは対物レンズ試験と条件的に変わるものではない。

普通の検鏡でも,物体の構造,コントラストは様々であり,中には使用している対物レンズの分解能以下の構造もあるだろう。たとえば,20倍の対物レンズを用いて,水封,無染色で動物の繊毛を観察するような場合がこれに該当する。この光学条件を対物レンズの側からみると,容易に分解できる構造から解像限界以下の構造までのコントラストをテストされていることに相当する。

このとき,珪藻プレパラートで練習を積み,微細構造のコントラストを自在に操れる観察者であれば,きっとその繊毛を明瞭に観察できることだろう。珪藻の微細構造を確実に観察できる技量を持つ人は,大抵の検鏡試料に対応できるのである。それはどんな構造にたいしてどのような照明を行えば良いか熟知しているからであり,その対物レンズの性能の限界を把握していて,それを引き出す方法を知っているからである。珪藻プレパラートによる低コントラストな微細構造を観察/撮影する日頃の訓練は,そんな成果を生むことになる。

光学に深く通じている東條はあっさりと「顕微鏡使用の訓練」と言っているが,これは,対物レンズの持つ性能を限界まで引き出す技術を身に付けるための訓練,という意味なのであり,その練習には珪藻プレパラートがよい,と言っているのである。



[1] 東條四郎 レンズ 河出書房 1941年
[2] 鶴田匡夫 続・光の鉛筆 光技術者のための応用光学 新技術コミュニケーションズ
 1988年
[3] 朝倉良三 顕微鏡写真術 アルス 1936年
[4] 稲澤譲治・津田均・小島清嗣(編) 顕微鏡フル活用術イラストレイテッド 
 秀潤社 2000年
[5] Inoue, S. and K. R. Spring (寺川・市江・渡辺 訳):ビデオ顕微鏡−その基礎と
 活用法,共立出版,東京,744pp.
[6] Alan J. Lacey (1999) ,Light Microscopy in Biology A Practical Approach
 Second Edition, Oxford University Press











トップに戻る