顕微鏡という趣味

2007.9.26 copyright (C) MWS

顕微鏡という趣味 




顕微鏡,と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。科学系工学系と関係のない業界の方は「ああ,あれね,子どもの頃学校で覗いたやつ」とか,「教材の付録についてくるやつ」などを思い浮かべるのかもしれない。自然科学系の仕事をされている方には,逆に風景の一部のように普通の存在であることだろう。そしておそらく,顕微鏡,という言葉を知らない人は相当に珍しいのではないかと想像する。

そのくらい,顕微鏡という言葉はポピュラーな名詞になっているのである。

しかし顕微鏡を趣味にしている人はとても少ない。毎日顕微鏡を相手にしている私でさえ,知人で顕微鏡が趣味,という人を数えるには両手があれば事足りる。我が家に来る酒好きの面々は,みんなデジカメを持っていても顕微鏡は持っていない。

そのくらい,顕微鏡という趣味はマイナーなのである。

ではちょっと目先を変えて,「顕微」を「望遠」に変えてみたらどうだろうか。望遠鏡という言葉は誰でも知っている。そして望遠鏡で星を覗くのが趣味,という人は結構いるのである。その証拠に,書店にいけば天文の月刊誌が並んでいるし,アマチュアの団体が全国各地に存在している。

これはどうしたことだろうか。

趣味の顕微鏡観察家が少ない,というのはどうも日本特有の現象かもしれない。顕微鏡はヨーロッパが発祥の地であるが,洋書を読んでいると,19世紀のよく教育が行き届いた紳士たちの間では,顕微鏡を所有するといいうのはごく普通のことだった,との記述がある[1]。実際,1800年代中頃の顕微鏡雑誌[2]をみてみると,ヨーロッパ各地から観察や検鏡の工夫に関する報告が相次いで,一年分のページ数が1000ページを越えるようなものもあるのだ。そしてこの雑誌は現在では学術誌として引き継がれているのである。対して,日本ではこのような歴史はなく,たまにできる光学顕微鏡に関する研究会も細々と続いて,気が付けば消滅している。

これには理由がちゃんとある。19世紀から20世紀初頭のヨーロッパには,顕微鏡を供給する会社が存在し,レンズを作るための硝子材を供給する業者も存在した。ツァイスやショットが代表例である。しかし日本の企業が独自に高性能な顕微鏡を発売するに至るには,20世紀もしばらく経ってからのことになる。だから顕微鏡下の世界がポピュラーになって,これを趣味とする人が増え始めたのは1950年以降のことである。ヨーロッパと比較すると,日本における顕微鏡観察家の歴史は,これから積み上げられてゆくといってもいいのである。

ところで,上等な顕微鏡は高価である。それは昔も今も一緒だ。しかし今の日本は顕微鏡的に非常に幸せな時代である。

光学顕微鏡の分解能は光の回折現象によって上限が決まっており,最上級の対物レンズを購入すれば,その上限に到達することができる。そして日本では,オリンパスとニコンという世界的光学メーカが存在することもあって,その最上級のレンズは新品でも40万円くらいで買えるのである[3]。40万円で望遠鏡を買おうとするならば,ハイエンドから遠く隔たった中級クラスになることであろうから,その意味でも顕微鏡は投資効果が大きいし,日本人は恵まれているのである。

それだけではない。デジタルカメラは欧米でもDigicamと呼ばれているが,日本製品の独壇場で,あらゆる種類の製品が信じられない低価格で入手できる。今から30年ほど前は,デジタル素子は目が飛び出るほどの価格だったし,パソコンで画像演算をするなんて考えられなかった。1980年代でも,豊富な予算を持っている研究室だけが画像処理装置を持っていた。僅か10万円程度でデジタル撮影ができてそれをパソコンで自由に画像処理できるというのは,研究者でもなかなか想像できない世界だったのである。それがついに,誰でも自宅の机の上で実現可能になったのである。

そして,必要な情報や貴重な観察の成果がインターネットを通じて相互に見聞できる。何と素晴らしいことだろうか。

この良い時代に顕微鏡を覗かないなんてもったいない!

では,その顕微鏡で何を見るのか。それは事実上∞なのである。生物を覗くだけでも何百万,いやそれ以上の種類がいる。珪藻の美しさも特筆物であるけれど,池の水一滴をみても,昆虫の羽をみても,臓器の切片を見ても,じつに興味深い。夕食に出たニンジンの切れ端を薄く切って覗いてみよう。あるいはキュウリでもいい。あなたのアイデア次第だ。そこには未見の世界が広がっているのだ。

生命の星である地球は,微生物が創り上げてくれたものである。いま吸っている空気も,長い歴史の中で微生物たちが用意してくれたものである。作物を育てる大地も,我々が捨てたゴミを分解してくれるのも,下水処理場で水が浄化されるのも,海で魚が育つのも,全て微生物たちのお陰である。望遠鏡で銀河を眺めるのも雄大な気分になるが,顕微鏡で微生物を観察して,数十億年の地球の歴史に思いを馳せるのもまた壮大である。

良い顕微鏡を入手して,きちんと勉強すれば,新しい世界への案内役として一生の友となることであろう。

[1] Round F.E. et al. (1990): the diatoms. Cambridge University Press
[2] Journal of Royal Microscopical Society
[3] Nikon, Olympus価格表(2005〜2007年)










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